第四章 男の自覚〈1〉

 三月中旬。
 天城の山々にも春の芽吹きが見られるようになった。朝晩の寒さもやわらいできた。春はすぐ近くまできている。自転車で通学しているから、冬から春に変わる空気や光の微妙な変化を肌で直に感じ取れるのだ。
 午後六時過ぎ。
 大地(だいち)は今、修善寺方面行きの電車に乗っている。自転車ではない。早朝から冷たい雨が降っていたためだ。三両編成の私鉄。真ん中の先頭寄りのボックス席に坐っている。隣にいるのは佐藤(さとう)だ。ふたりに会話はない。黙って窓からの景色を眺めている。
 沈黙がつづいているけれど苦にはならない。男同士だから。それにクラスも部活動も一緒の佐藤だから。中学時代からの長いつきあいなのだ。気心が知れているという意識をお互いが持っている。
 佐藤は窓枠の縁に肘をついて頬杖をついている。電車は伊豆長岡駅を出たところだ。午前中に雨はあがり、今は晴れている。夕陽はすでに天城連山に沈み、夕闇が田園風景を覆っている。
「なあ、佐藤。時間が経つのが速いと思わないか?」
 大地は胸に浮かんだ気持を言葉にした。いつになく落ち着いた声音だった。佐藤とはたいがいバカ話に終始しているから、大地は自分のしみじみとした声に少し驚いた。
「何言ってるんだ? たそがれちゃって、どうしたんだよ」
「おれたち、もうすぐ三年じゃないか。ついこの前に龍城高校に入学したような気がするな。そう考えたら、卒業も近いな」
「どうかしちゃったみたいだな、山神(やまがみ)。何かあったのか?」
「べつに」
「理由もなく、たそがれちゃうわけか。思春期だから、それも仕方ないか。せいぜい落ち込めばいいさ」
「思春期ってことだったら、佐藤も同じだろ? おまえなあ、高いところから見下ろすような言い方をするんじゃないって」
「気に障ったか?」
「怒り心頭ってとこだ。当然だよ。真剣にいろいろなことを考えようとしている時に、茶化すからだよ」
「悪かったな。機嫌直せよ」
「三年生になったら、今以上に真剣に考えることが多くなるだろうな」
「山神、あのさあ、ひとつ、アドバイスだ。深刻に考えればいいことばっかりじゃないよ。あっさりと考えたほうがいいこともあるはずだから」
「おいおい佐藤、おかしなこと言うなよ。まるで、真剣に考えることがいけないみたいじゃないか」
「そうじゃないよ。真剣に考えることと深刻に考えることは違うってことを言いたかったんだ」
「いやな感じだなあ。すべてがわかったような言い方をするんだものな」
「今年に入って、読書をすごくするようになったからな」
「経験が導いてくれた言葉ではないってことか」
「知識がなければ、経験したって、それは血肉にはならないんだ。だから山神、知識をバカにしたら手痛いしっぺ返しを喰らうからな」

第四章 男の自覚〈2〉

 佐藤(さとう)は自分の言葉の遣い方に満足したように深々とうなずいた。その時だけは頬杖をやめていた。そんな姿が、大地(だいち)には滑稽に思えた。
 彼の言葉のすべてが、頭の中での理解だ。自分でも言っていたけれど、経験が基になったうえでの言葉ではない。高校二年生なのだから当然だろうけど、説教めいた知識だけの言葉が、大地には不愉快だった。
 世の中のことがわかったような言い方をしていたからだ。そういうことを自慢気に言うのはおかしい。人生に対して、謙虚であるべきだ。伊豆の田舎に住む十七歳の男がわかっていることなど、ほんの少しのはずだから。傲慢になっていると、いつかどこかで足下をすくわれる。そういうことを、大地はこれまでつきあってきた年上の素敵な女性から教えられてきた。大切なことは、経験であり知恵だ。それらは確かに血肉になる。
「山神(やまがみ)、どうしてニヤニヤしているんだよ」
「だって、佐藤がおかしいからさ」
「おれが? なぜ?」
「本に書いてあったことを受け売りしているんだもの。おまえ、そんなタイプの男だったか?」
「たまにはいいだろう、おれが偉そうなことを言っても……。山神がたそがれちゃってるから、励まそうと思っただけさ」
「それならいいんだけどな。頭でっかちの奴って、いやな男が多いからな。佐藤にそんな奴らの仲間入りして欲しくないなって思ったんだよ」
「なるわけないって。おれは知識よりも知恵を大切にするタイプだからな。つまり、経験を重要視する科学的な男ってことさ」
「科学的な? 相変わらず、おまえって、おかしいなあ」
 大地は笑い声をあげた。佐藤もつられるように笑った。

第四章 男の自覚〈3〉

 電車のスピードが落ちてきた。見慣れた町並みが視界に入る。佐藤(さとう)はまだ笑い声をあげている。
 彼と視線を絡めた。その瞬間、大地(だいち)は緊張した。
 佐藤のせいではない。視界に女性の顔が入ったからだ。
 長い髪のその女性は笑っていた。連れはいないようだった。それでも笑っていた。どう考えても、自分たちの会話を聞いて笑っていたのだ。
 電車は修善寺駅に着いた。『女薫の旅 疾風篇』イラスト
 佐藤とともに電車を降りる。吹きさらしのホームを歩く。さすがに寒い。小走りで改札に向かううちに、長い髪の女性のことを忘れる。
「佐藤はバスで帰るのか?」
「朝、雨が降ってたけど、駅まで自転車で来たんだ。おれ、乗って帰るから。それじゃ、たそがれ野郎、明日な」
「おうっ、それじゃあな」
 大地は元気よく朗らかな声をあげた。自転車置き場に向かっている佐藤の背中に声を投げた。
 ホームの時計を見る。午後六時二十分過ぎ。
 帰宅するにはまだ早いと思ったけれど、寄り道するところが思い浮かばなかった。オヤジは酒を飲んでいる。そんなところに帰りたくない。
(いやだな、帰るの……。でも、仕方ないな)
 大地は歩きはじめた。寄り道したいと思ったけれど、喫茶店で時間を潰すといった発想はなかった。校則でも禁止になっていた。それに、小遣いをもっていなかった。
「君、ちょっといい?」
 背中に女性の声が飛んできた。自分のことではないと思って無視していると、またすぐに、同じ女性の声が耳に入った。
「学生服を着ている君、ちょっと待って」
 しっとりとした声音だった。三十歳前後だろうか。自分に声をかけてきたの? 一瞬にして全身に緊張が走った。カッと熱くなるのを感じた。ほんとにおれに? ドキドキしながら振り返った。

第四章 男の自覚〈4〉

 きれいな女性だった。
(あれっ、どこかで見た顔のような気がするけど……)
 夕闇の中でも、その女性の長い髪は艶やかに輝いていた。穏やかな微笑を浮かべた。それを見て、大地(だいち)はどこでその女性を見たのかわかった。
 電車の中で佐藤(さとう)と一緒にバカ笑いをしていると、その女性が視界に入った。一瞬だった。その時も微笑んでいた。今みたいに穏やかに。だから印象に残ったのだ。『女薫の旅 疾風篇』イラスト
「何かわからないことでもありますか? ぼくでわかることなら……」
 大地は落ち着いた声で応えた。微笑を湛えるうちに、胸のドキドキは失せた。その女性がボストンバッグを抱えていて、観光客だとわかったからだ。気持を切り替える。観光地に住む地元住民になるのだ。
 修善寺は全国的に知られた観光地である。当然、訪れる客も多い。だからここで暮らしていると、たびたび、他県からの客に観光地までの道順を訪ねられたりする。これまでにも何度かあった。そういう時、つっけんどんな返事をしないようにという心がけもしていた。不機嫌そうな顔をしたり、面倒臭そうな声で応えたら、自分に対する悪印象ではなくて、修善寺という観光地に対して悪印象を抱くと思っていたからだ。
 いつだったか、このことで佐藤と話したことがある。観光客に呼び止められて道を聞かれることが多くて面倒だと彼がこぼしていたので、大地はたしなめたのだ。観光客が来てくれるってことは修善寺が栄えるってことなんだから喜ぶべきことじゃないか、観光の仕事をして生活している人だっているんだからさ、面倒に思うなんておかしいよ、観光客に対してはとにかく丁寧な応対をしたほうがいいんじゃないか? おれたちが修善寺に貢献できることといったらそれくらいなんだからさ……。佐藤は頭をかきながら納得した。記憶が正しければ、そのやりとりは、中学二年生の頃のことだ。
「そうではないの。ひと言、君にありがとうと言いたいなと思って……」
 彼女は相変わらず穏やかな表情をしていた。でも、言葉の内容は訳がわからないことだった。
「ぼく、何もしていませんけど」
「さっき、君たちが乗っていた電車にわたしも乗り合わせていたの。悪いと思いながら、君たちの話を聞いちゃったのよ」
「あらたまって言われると、なんだか恥ずかしいです。つまらない話だったでしょ? まったく意味がない会話していましたから。同級生なんです、あいつは。いっつも、くだらない話なんです」
「微笑ましくって……。君たちと一緒になって笑っちゃった。本当は落ち込んでいたのに、笑ったおかげで元気がでたの」
「お姉さんが笑っている時の顔、ぼく、ちらっと見ました」
「やっぱり。目が合った気がしたのよ……。そう思わなかったら、君に声をかけなかったかな」
 大地はうなずくと、小声で「そうでしたか」と応えた。そこで会話は途切れた。話すことはもうなかった。たまたまた通りかかっただけの人である。話題がなくて当然だ。
 でも惜しいと思う。せっかく声をかけてきてくれたのだから。もう少し話してみたかった。外の空気を感じたかった。修善寺に住んでいる人からは感じ取れない新鮮な感性に触れられるチャンスだ。

第四章 男の自覚〈5〉

「どちらから来られたんですか」
 大地(だいち)は立ち止まったまま、その女性に声をかけた。迷惑かなとチラッと思ったけれど……。知人なのか宿の送迎係なのかわからないが、とにかくまだ彼女を迎えに来ていない。それならば話をつづけてもかまわないだろう。
「北海道なのよ」
「へえ、わざわざ」
「修善寺ってあったかいのねえ。今ごろ、北海道は氷点下じゃないかしら」
「ひとり旅なんですか?」
「そういうことになるかしら」
「まさか、修善寺が目的地っていう訳ではないでしょうね」
「そのまさかですよ。北海道からわざわざ、青函連絡船で。東京に出るのにもひと苦労だったけど、そこから東海道線の鈍行に乗って来たんだから。長くかかったわねえ」
「北海道からなんて……。すごい旅をしてきたんですね。ぼくのほうこそ、ありがとうございますって言ったほうがいいみたいです」
 大地はぺこりと頭を下げた。ありがたいと本気で思う。同時になぜと疑問も抱く。
 生まれた時からずっと修善寺で暮らしてきた者からすると、この街のどこに、北海道から何十時間もかけてやってくるだけの魅力があるのかわからなかった。にもかかわらず、来てくれる。街はそれによって栄える。温泉がいいのはわかっている。自然も豊かだ。温暖でもある。でも、それらは大地にとってはごく当たり前にあるもので、しみじみとありがたがるものではなかった。特筆すべき魅力でもなかった。身近にありすぎたのだ。
 自然環境に恵まれているとは思っている。そんなことはちょっと考えてみればわかることだ。北海道と修善寺では、冬の厳しさはまるきり違う。穏やかな伊豆の気候を、当たり前だと思うのは贅沢なのかもしれない。それを頭では理解している。温暖な土地に生まれた偶然に感謝もしている。けれども、身に染み込むまでのありがたみは感じたことがなかった。何度も言うように、当たり前のようにあったから。
「東京からいらっしゃる観光客は多いんですけど、北海道からっていうお客さんは珍しいですね。ぼくは初めてです、北海道の人に声をかけられたのって……」
「君が輝いていたからよ」
「ありがとうございます。北海道からいらしたのに、気まで遣わせちゃって」
「ははっ、おかしいわね」
「修善寺のお目当ては、温泉ですか? それとも宿?」
「どちらでもないかな」
 彼女の曖昧な返事を聞いて、大地は踏み込みすぎたかなと反省した。彼女に対してというより、自分自身に対してだ。

第四章 男の自覚〈6〉

 観光客というのは地元で暮らしている者にとって、いわば通り過ぎるだけの人たちだ。心のつながりは滅多につくれるものではない。そんなことを常に期待していたら、落胆するばかりだろう。心構えとしてはいいだろうけど、それでは心はもたない。健やかな精神を保ちつづけられない。
 どこかで割り切らないといけないと思っていた。人と人との出会いではないのだと。漠然とはわかっていたけれど、きちんとした線引きができていなかったのだ。
 長い髪の女性は手にしていたボストンバッグを肩にかけた。重そうだ。一泊の仕度ではないようだ。やはり、北海道からわざわざ来てくれたのだろう。
「今夜はどこに泊まるんですか? 宿の予約を入れていますよね」
「柳井旅庵という旅館、君、知ってる?」
「もちろん、知ってます。すごく素敵な旅館です。温泉もいいし、食事もおいしいと評判なんです」
「そうみたいね。ここに住んでいたことのある友人が、修善寺に行った時は柳井旅庵に泊まってみなさいって、しつこく言っていたの」
「その人、目利きですね」
 大地(だいち)は素直にうれしかった。麻子が若女将として働いている訳でもないのに、自分が誉められた気がした。
「駅からちょっと歩くんです。連れていってあげましょうか。ぼくのことはお気遣いなく。遠回りになりませんから」
「ありがとう。助かるわ。ところで、君はどこの高校? もしかしたら、龍城高校?」
「北海道の人なのに、よく知ってますね。ぼくのこの制服は、龍城高校のものです」
「君、まさか、二年生?」
「はい、そうです。もうすぐ三年生ですけど」
 彼女の表情がわずかにこわばった。意味深な眼差しを送ってくる。肩にかけたボストンバッグを下ろす。ため息をつく。そして、ゆっくりとした声で言った。
「山神(やまがみ)、大地君……。龍城高校の二年生だと思うけど、君、知ってる?」
 大地はあまりにびっくりして、すぐには応えられなかった。
 なぜ名前を知っているのか。
 この人はいったい誰?

第四章 男の自覚〈7〉

「ぼく、ですけど……」
 大地(だいち)はためらいがちに応えると、もう一度、目の前で立っている長い髪の女性の顔を見つめた。ため息が出るくらいに美しい。
 知り合いではない。これまでに出会った女性でもなさそうだ。これだけの美人だ。一度会えば忘れない。でも、記憶になかった。それに、北海道出身の知人はいない。この女性、誰なんだ? どうして名前も高校も知っているんだ?『女薫の旅 疾風篇』イラスト
「やっぱりそうだったのね。電車で見かけた時、もしかしたらって思っていたのよ。こういう偶然あるんだから、不思議なものよねえ」
「ちょっと待ってください。ぼくには何がなんだかわかりません。どういうことなのか、説明していただけますか」
「詳しいことは宿に着いたら、お話ししますよ。わたし、感動しているの。それに、この偶然に感謝しているの。わたしがどれだけ幸せな気持になっているか……。もう少し、浸らせておいてね」
「柳井旅庵に行くんですよね」
 大地は念を押した。彼女はすんなりとうなずいた。
 がっかりだ。柳井旅庵とは別の旅館の名前を口にしたら、案内を断ろうかと思ったのだ。
 柳井旅庵に連れていくしかない。事前に約束してしまったことを後悔した。
(このひと、いったい何者なんだ? 教えてくれないなんて変だよ……)
 面と向かって不満を言いたいところだけれど、大地はぐっと堪えた。
 何者なのかわからないけれど、観光客であることには変わらない。少なくとも、不快な思いをさせてはいけない。それが観光地に暮らしている者の義務だ。そんなことを自分に言い聞かせながら歩く。親切心があだとなった気がした。
 こうなったからには、柳井旅庵に案内するしかない。
 修善寺駅から歩いて十分強。女性の足でも十五分あれば着く。
「君の笑顔を見ているうちに、絶対にこの高校生が山神(やまがみ)大地君だって思ったんだから。わたしの勘って、すごいでしょう」
「教えてくれないと、どういう答え方をしていいのかわかりません」
「それはそうよね。ごめんなさい、わたし、自分だけが納得しちゃったわね」
 長い髪の女性は立ち止まった。

第四章 男の自覚〈8〉

 桂川の流れが聞こえてきた。夕闇が濃くなるにつれて、川音も大きくなってくる。
 独鈷の湯が遠くに見える。裸電球の明かりが、湯煙とともに揺れる。
 彼女は何を見ているのだろう。独鈷の湯を眺めているようにも思えるし、もっと遠くの、たとえば、過去の記憶といったものに想いを馳せているようでもあった。物思いにふけっている表情にも感じられた。長い髪が表情を隠しているからか。修善寺の夕闇が、女性に陰影をつけているのかもしれない。
「山神(やまがみ)君は北海道に縁はないの?」
「あると言えばあります……」
「どういう人?」
「ごめんなさい、初対面のあなたには言えないことです」
「訳がありそうね……。差し支えなかったら教えてくれるかな」
「だめです」
「どうして?」
「だって、修善寺に観光に来た人に言うことじゃありませんから。すごく個人的なことです。それにぼくは、名前も知らない人にペラペラと喋るような軽薄な男でもありません」
「わたし、自己紹介していなかったわね。ほんとにごめんなさい、ずいぶんと失礼なことしていたわ。なのに、誠実に応えてくれて……。わたし、坂上登志子(さかがみとしこ)と言います。札幌の近くで暮らしています」
 大地(だいち)はその名前を聞いた瞬間、全身が硬直するのを感じた。呼吸ができなくなりそうだった。息苦しくなってその場にへたり込んだ。
「山神君、大丈夫?」
「ちょっとびっくりしました。まさかと思って……。心の奥底にずっとひっかかっていたことがあって。その人の苗字と、あなたの苗字が同じなんです……」
「誰、その人」
「坂上久美子(くみこ)さんと言います。伊豆長岡の病院で看護婦さんをしていたんです。でも、辞めちゃいました。後で知ったことですが、癌に冒されていたんです」
 大地はそこまで言ったものの、胸のざわめきが大きくなってしまってそれ以上は言葉をつづけられなかった。この長い髪の女性は、坂上久美子さんの親類だ。

第四章 男の自覚〈9〉

 北海道からわざわざ修善寺にやってきたのには、間違いなく理由がある。観光が目的ではない。大地(だいち)の勘だった。不吉なものだったけれど、いつかこんな時が来るのではないかと思っていた。
(とうとうこの日が来てしまった……。久美子(くみこ)さん、逝ってしまったんだ)
 自分の早とちりであって欲しい。でも、ほかに考えようがない。坂上登志子(さかがみとしこ)の目を見つめる。似ている。坂上久美子と。記憶を自分に都合よく変えているのではない。目元や口元がそっくりだ。穏やかな微笑も。坂上登志子の微笑を見た時、親しみを感じたのは、坂上久美子と似ていたからだ。
「山神(やまがみ)君、わかったみたいね」
「坂上さんという苗字を、ぼくは忘れたことがありません」
「お願いがあるんです。詳しいことを伝える前に、君に頼みたいの」
「何でも言ってください」
「抱きしめていい? 驚かないで欲しいの。わたしが勝手に言っているんじゃないから」
「抱きしめてください」
「いいのね」
「はい」
 大地はゆっくりと立ち上がった。彼女と手をつないだ。握手のような儀礼的なものではない。そのすぐ後だった。坂上登志子に抱きしめられた。細い腕に女の感情が込められていた。大地はそれを確かに感じ取った。これは坂上久美子の気持だと。
「久美子のこと、覚えていてくれたのね。山神君、ありがとう。あの子、わたしの妹だったの」
「ずっと心配していました。どうなのかなって……。北海道にお見舞いに行こうと何度も思いました」
「一ヵ月前、久美子は逝きました」
「そうだったんですか」
「久美子はね、意識がなくなってからも、君の名前を何度も何度も口にしていたの」
「せつないです、ぼく」
「ありがとう、ほんとにありがとう。久美子、きっと喜んでいるはずよ」
 坂上登志子は言うと、もう一度、強く抱きしめてきた。桂川の川音にまぎれながら、彼女はすすり泣いている。

第四章 男の自覚〈10〉

 坂上登志子(さかがみとしこ)のすすり泣きはつづく。彼女に抱きしめられたまま、大地(だいち)は身じろぎひとつせずに立ち尽くしていた。
 夕闇が濃くなっている。桂川の川音が大きくなっている。自然のわずかな移ろいを感じるうちに、彼女の妹の坂上久美子(くみこ)が亡くなったことが胸に迫ってきた。
(久美子さんとはもう、二度と会えないのか……)
『女薫の旅 疾風篇』イラスト 夜勤の時の彼女の姿を思い出す。やさしい笑顔が脳裡をふっと浮かんでは消えていく。せつなさに胸が苦しくなる。大地は思案する。こういう時、どんな言葉をかけていいのだろう。亡くなった久美子の姉のショックは、田舎に住んでいる高校二年生の想像をはるかに超えているはずだ。
 安直な言葉やお決まりの言葉が浮かんだけれど、大地はそうした言葉を口にしたくなかった。すべてが安っぽくなってしまいそうな気がした。自分だけでなく、声をかけられた登志子までも。そして、久美子の死を悼んでいる気持までもが薄らいでしまう気がした。
 考えすぎだろうかと思ったり、そうではないと思い直したりする。彼女に抱きしめられながら、この人はどんな想いを胸に秘めて、北海道から修善寺までやってきたのかと想う。彼女の悲しみのいくらかは想像できて、涙がじわりと浮かぶ。
 夕闇が滲む。目尻に滴が溜まる。気分を変えれない。抱きしめられているからか。登志子の髪から漂ってくる女性特有の甘い香りを胸に吸い込みながら、看護婦だった久美子の髪からは消毒薬の匂いがうっすらと漂っていたなと思い出す。そんな記憶がせつなさを増幅させる。目尻にどうにか留まっている涙の滴が、頬をつたって落ちていく。
 登志子が洟をすすった。大地も涙を拭った。抱きしめている彼女の腕から力がすっと抜けていった。
「ありがとう、山神(やまがみ)君。久美子のために泣いてくれて……」
「会いたいなあって、ほんとに何度も思いました。笑顔、もう一度見たかったです。ごめんなさい、北海道に行けなくて……」
「その気持だけで十分よ。あの子ね、病気が悪くなってから、ほとんど誰とも会わなかったの。自分の姿を見せたくなかったのよ」
「そうだったんですか」
「寂しかったはず。でもね、そんなことはひと言も口にしなかった」
「強い女性だったんですね」
「無口になっていたしね。だけど、君のこととなると、久美子ったら不思議と饒舌になったのよ。いつだったか、絶対に会いに行ってと約束させられたの」
「ぼく、交通事故で入院していたんです。その時の久美子さんが担当の看護婦さんだったんです。すごくよくしてもらいました」
「聞いてるわよ、その時のこと。高校生離れした逞しい子で、しかも、自分好みの美男子だったと……」
「ぼくのような生意気な小僧でも、久美子さんは心の底から親切にしてくれたんです。仕事だからやっているんじゃないっていうのが、ぼくには伝わってきました。だからこそ、よく覚えているんです」
「わたし、修善寺に来てよかった……。ほんとのことを言うとね、無駄足になるんじゃないかなって思っていたの」
「どうしてですか」
「だって、山神大地という男の子に会えないかもしれないでしょ? それに、たとえ会ったとしても、久美子のことを覚えていないかもしれない。そうだとしたら、久美子がかわいそうだし……」
「でも、すべての心配が違っていましたね」
 坂上登志子はにっこりと微笑んだ。

第四章 男の自覚〈11〉

 夕闇に覆われていたけれど、彼女の笑っている表情だけはくっきりと浮かび上がって見えた。穏やかで美しい顔。坂上久美子(さかがみくみこ)の顔とだぶる。
 出会った頃の久美子は確か、三十二歳だった。登志子(としこ)は二、三歳上だろうか。久美子とは年齢は近いように思える。若々しい。二十代と言われたら、素直に信じてしまうくらいの若さと華やぎがある。肌も白い。久美子もそうだった。透明感がある白さだ。北海道で暮らしている女性だからかもしれない。
「柳井旅庵の温泉って、気持がいいみたいね」
「はい、そう思います。それについては自信があります。ぼく、アルバイトをしていたことがあって、何度か入らせてもらいましたから」
「久美子もね、北海道に戻る前に泊まったそうよ。アパートを引き払った日に……」
「もうすぐ着きます」
「よかったら、一緒にお食事しませんか?」
「えっ」
「ごめんなさい、いきなりそんなことを言い出したりして……。まさか、君と出会えるとは思わなかったから、わたし、気持が舞い上がっているみたいなの」
 登志子は恥じらうようにうつむく。大地(だいち)は寄り添って歩く。
 このまま別れてしまってはいけない気になる。だからといって、一緒に夕食を取るのは気が引ける。久美子の姉とはいえ、初対面なのだ。短時間なら会話をつづけられるだろうけど、長時間となると……。
(どうしよう。家にまだ帰らなくても大丈夫だとは思うけど)
 大地はため息をついた。今の自分にとって何がもっとも大切なことなのかを考えた。
 結論はすぐに出た。
 久美子の死を悼むことだ。彼女と肌を重ね、心までつながった男の義務だと思った。だから、どんなに気まずくても、姉とともに食事をとろうと決めたのだ。
 でもひとつ問題があった。旅館というのは食材を余分に用意していないものだ。だからいきなり、ひとり分増やして欲しいという依頼があっても対応は難しい。アルバイトしていた当時の柳井旅庵はそうだった。もちろん、ひとりやふたり分の取り置きはある。でも、それらはなんらかの粗相があった時のための予備だ。
 柳井旅庵の敷地に入った。
 日本庭園は闇の中だ。月は雲に隠れている。時折、月光が射し込んで庭園を照らす。何度眺めても見事だと思う。
 昼の光の中でも、微かな日光だけが注いでいる闇夜であっても美しい。それぞれに表情があって、それぞれに魅力的なのだ。坂上久美子が気に入ったということが、大地にとってはうれしかった。もう二度と会うことはできないけれど、彼女とのつながりがまた少し深まった気がした。

第四章 男の自覚〈12〉

 柳井旅庵に入る。懐かしいたたずまいだ。麻子(あさこ)が若女将の時と変わっていない。仲居が即座に応対する。大女将も顔を出す。忙しい夕食時ではあるけれど、宿の誰もがやさしく応じている。
 坂上登志子(さかがみとしこ)はフロントで宿帳に書き込みはじめた。大女将と話し込んでいる。ちらちらとこちらに視線を送りながら。大女将は深々とうなずく。その様子から、食事の追加が頼めたのだとわかった。
 仲居が彼女のボストンバッグを持った。奥の部屋につながる廊下を歩きはじめる。坂上登志子に声をかける。大地は彼女に呼ばれる。
 大女将はアルバイトしていた高校生としてではなく、客人として接している。だから一度も、アルバイトのことを口にしていない。さすがの応対だ。そのおかげで大地(だいち)は気後れせずに、客として振る舞える。
 部屋に入った。茜の間。
 仲居がお茶を淹れながら、日本庭園を眺められる部屋です、と教えてくれた。食事は追加分を用意しているので午後七時四十五分からという説明だった。その間に、温泉で疲れをとってください。仲居は笑顔で言うと、部屋を出ていった。
「女将さん、すごくやさしい方だったわ。いやな顔ひとつしないで、追加に応じてくださったから」
「ぼくが一緒でほんとにいいんですか?」
「遠慮しないでいいの。女将さんには事情を話して、わかってもらっていますから。夕食をいただくだけではなくて、お風呂もいいのよ。泊まっていくことだって……」
 坂上登志子は言うと、恥ずかしそうにうつむいた。その瞬間、彼女の横顔に女の心があぶりでたようだった。それまでの彼女は、たとえ、高校二年生の男子を抱きしめている時でも、坂上久美子(くみこ)の姉としての顔で通していた。
(素直でやさしい女性なんだろうな……)
 彼女の桜色に染まる頬を眺めながら、大地はひとりの女性として彼女を見つめた。

第四章 男の自覚〈13〉

 坂上登志子(さかがみとしこ)を見つめているうちに、彼女のほうからねっとりと絡みつくような眼差しを送ってきた。柳井旅庵の部屋の空気が濃密になっていくようだ。大地(だいち)は目を逸らさない。彼女の熱い視線にはなにがしかの意味が込められていると感じたからだ。『女薫の旅 疾風篇』イラスト
 胸の奥からじわじわと熱が生まれている。登志子を久美子(くみこ)の姉としてではなくて、ひとりの女として見てしまったせいだ。
 性的な欲望が芽ばえそうになる。不謹慎だと自分を戒める。妹の死を伝えてくれるために、はるか遠い北海道からわざわざやってきてくれた女性なのだ。いくら魅力的だからといって、いくら抱き合ったからといって、性欲の対象にすべきではない。
(頭を冷やさないと……。性欲をぶつけてはいけない特別な女性がいるんだから……)
 大地はこういう時に必要な会話の切り替えが苦手だ。はっきり言うと下手という自覚さえある。
 つまり、今の雰囲気を無理矢理変えるということになるからだ。自分の都合を押し付けることになる。それを図々しいことをしているように思ってしまうのだ。
「修善寺は暖かく感じるんじゃないですか」
 大地は言う。自分でもこれは無理がある話題の変え方だとも思う。少し照れた。そのおかげで、妖しい空気が拡がりそうだった兆しが、ふっと、別の空気になった。
「ずいぶんと違うわ。北海道って三月でもまだ寒さが厳しいから」
「いつか行ってみたいと思っています……。だけど、久美子さんがいなくなったから、行くための動機もなくなった気がします」
「そんな寂しいことを言わないで。北海道はいいところなんだから。それに……」
 登志子はそこで言葉を呑み込んだ。
 はにかんでいるようだった。年上だけれど、彼女のそんな表情を可愛らしいと思った。少女のようなのだ。警戒心だとか不安といったものがまったくなかった。
(登志子さん、どうしたのかな。表情がいきなり変わったから、びっくりだ)
 彼女が何を言いたかったのか。それがわかれば、照れ笑いを浮かべた訳もわかると思う。だから大地は、
「えっ、何?」
 と、タイミングが遅れているとわかっていながら、彼女に言葉をつづけるようにうながす応え方をした。
「何って?」
「言いかけて、止めたでしょう? 何と言うつもりだったんですか」
「いいの、気にしないで」
「だめです、気にしてしまいます。言ってください」
「年上の女を、山神(やまがみ)君はからかうつもり?」
「まさか、そんな」
「仕方ないなあ……。あのね、久美子はいなくなったけど、わたしがいるんだから、北海道に来る動機ができたんじゃないって……」
 登志子は言うと、うつむいて照れ笑いを浮かべた。
 大地はうなずいた。ここにいるのは、ひとりの女だ。久美子の姉と思わないほうがいい。登志子のためにも自分のためにも。
 座卓の反対側に坐っている登志子のそばに近づく。それとともに、妖しさを帯びた濃密な空気が蘇ってくる。
(きれいな女性だ……)
 大地は近づく。登志子との距離は三十センチだ。

第四章 男の自覚〈14〉

 大地(だいち)が三十センチまで近づいたのに、坂上登志子(さかがみとしこ)はいやがる素振りを見せない。それどころか、やさしい眼差しを送りながら、にっこりと微笑むのだ。
「夕食まで少し時間があるから、山神(やまがみ)君、お風呂に行きましょうよ。家族風呂があるそうだから」
 登志子はあっさりと言った。それってすごくないか? 大胆なことのはずなのに。大地は応えられなくて、もじもじしていた。誘われているかもしれない。その一方で、これも亡くなった妹の久美子(くみこ)への哀悼になるのだろうと考えた。
「どうしたらいいんでしょうか、ぼく。初対面の女の人とお風呂に入っていいものかどうか……」
「戸惑うのは当然よね。言っているわたしだって、すごく戸惑っているくらいだから」
「それって変ですね」
「変、すごく変。おかしな女だと思われるってこともわかっている……。でもね、わたしは山神君と一緒に、どうしても、柳井旅庵の家族風呂に入りたいの……」
「なぜですか? そこまではっきりとした意思があるからには、理由もあるはずです」
「一緒に入ったら、きっとわかるはず……。ごめんなさい、これじゃ、理由にならないわよね」
「そこまで言うなら……」
 大地は渋々ながら、彼女に従うことにした。
 意図があるのは明らかだった。それがわかっているのに拒むのは、男としても人としてもよくないと思ったからだ。それに、この情況で拒むくらいなら、柳井旅庵にあがらずに帰ったほうがよかったのではないかと思ったりもした。
 だから当然、性的な期待は芽ばえない。なにしろ、相手は初対面の女性だ。しかも彼女は亡くなった坂上久美子の姉である。彼女がいくら美人だからといって、人間関係が複雑なせいで欲望は湧かないのだ。
 浴衣に着替える。もちろん、大地もだ。宿泊者でもないのに、いいのかなと思っていると、登志子に思いがけないことを告げられた。遠慮することないんだからね、わたし、ふたり分を払いますからって、女将さんに言っておいたのよ……。
 柳井旅庵はけっして安価な宿泊料金ではない。アルバイトをやっていたからわかる。そこまでしてもらって申し訳ないと思って、何も言えなかった。
(泊まるしかないのかな……。泊まらないとしたら、料金がもったいない)
 登志子がそんなことを考えると思えなかった。彼女の望みは、夜を明かして久美子とのことを話すことである。その望みを叶えてあげたかった。それが久美子に対する弔いにつながるという想いもあった。
 男湯と女湯のある大浴場とは少し離れたところに、家族風呂がひっそりとある。脱衣所は桧がふんだんに使われている。湯舟は男性的な岩風呂だ。アルバイトをしている時、デッキブラシとタワシで洗うのが日課だった。どこに何があるのかわかっている。
 家族風呂の引き戸を開けた。
 温泉の香りがする。気持いい匂いだ。アルバイトをしていた時のことを思い出させる懐かしい匂いでもある。
 登志子の前で裸になるのは恥ずかしかった。もじもじするばかりで、なかなか、浴衣の帯を解けない。性欲が全身に満ちていたら羞恥心を追い払えただろう。でも、欲情していなかった。セックスできるかもしれないといった期待もなかった。
 登志子もさすがに恥ずかしいのだろう。やはり脱がなかった。
(恥ずかしさに負けてる……。それなのに、どうして誘ったのかな?)
 大地は胸の裡で思った。もちろんそんなことは、口にはしない。せっかく打ち解けてきたふたりの雰囲気が壊れてしまうと思ったからだ。

第四章 男の自覚〈15〉

「登志子(としこ)さんだけで、家族風呂に入るのはダメなんですか?」
「ふたりでないと……」
「やっぱり、理由を訊きたいな」
「言ってもいいかな……。あのね、ここの家族風呂って、岩風呂でしょ?」
「はい、そうです」
「久美子(くみこ)が言っていたことなんだけど、ごつごつした岩の中に、君に似た岩があるんですって。しかもね、その隣の岩はうちの父に似ているんですって」
「人の顔に似ている岩なんてあったかなあ」
「久美子が言うにはね、洗い場からだとか、立っている状態では、それが見えないって。湯船に浸かって背筋を伸ばしたある角度の時、岩がふたりの顔になるんですって」
「へえ、面白いな。久美子さん、ひとりで入ったんですね」
「そうらしいの。だから、一緒に入って欲しかったんだ。そして、君と父に似た岩を探して欲しかったの」
 大地(だいち)はうなずいた。なぜか、もう恥ずかしくなかった。帯を解き、浴衣をいっきに脱いだ。全裸になると、登志子を脱衣所に残して岩風呂に浸かった。久美子の弔いのためである。そして、妹を亡くした登志子の心を癒すためでもある。
「すごく気持のいいお湯ですよ。お姉さん、早く入ってきて。恥ずかしがっていたら、お父さんに似た岩、見つかりませんよ」
「人が違ったみたいに、威勢がよくなったわね」
「恥ずかしいなら、背中を向けていますから……」
「そこまで気を遣わなくても大丈夫よ。見たいんなら、ほら、どうぞ。見てもかまわないから」
 登志子が脱衣所のドアを開けて入ってきた。もちろん、全裸だ。陰部をタオルで隠しているだけで、乳房は剥き出しだ。
 豊かな乳房だった。妹の久美子以上かもしれない。躯全体がむっちりとしている。三十五歳の女性の躯つきはエロチックだ。
 性欲はけっして芽ばえないと思っていたのに、陰茎が反応した。ぴくぴくっと。わずかであったけれど、湯の中で跳ねた。大地は咄嗟に太ももを重ねて、陰茎がこれ以上反応しないように体勢を変えた。エッチなことを考える時ではない。
「わたしと妹ってね、体形がすごく似ているのよ。山神(やまがみ)君もわかったでしょ?」
「どうでしょうか」
「いいのよ、隠さなくても。入院していた君と親しく触れ合ったって、久美子から聞いているから……」
「何でも話していたんですね」
 大地はそう言うのが精一杯だった。肌の触れ合いはふたりだけの秘密だった。誰にも口外しないと約束もしたはずだ。なのに、久美子は明かしてしまっていた。
 これ以上の約束違反はない。怒りたいけれど、怒りの矛先を向ける相手はもういない。怒りたいのに怒れない。そのもどかしさと、触れ合ったということを知られた恥ずかしさが胸の裡で交錯する。
 岩風呂にかけ流しの湯の音が響く。登志子は目を細めたり、大きく見開いたりして岩を見つめている。背を伸ばすだけでなくて、丸めたりしながらも見遣っている。
 沈黙が流れる。
 どれくらいの時間が経っただろうか。登志子が岩を指さしながら驚きの声をあげた。
「ねえ、あれじゃないかしら」
 大地は彼女の指の先を追った。

第四章 男の自覚〈16〉

 大地(だいち)は坂上登志子(さかがみとしこ)が指さした先を追った。
(どれがそうかな? ぼくには男の顔に似ている岩があるようには思えないけどな)
 この家族風呂の岩風呂に、坂上久美子(くみこ)の父親と自分に似た岩が並んでいるということだった。姉の登志子はそれを確かめるために、わざわざ、北海道からやってきたのだ。
「どれでしょうか……」
 大地はためらいがちに訊いた。
 こういう時、ふたりが同時に理解するのがいいに決まっている。登志子だってそれを望んでいるはずだ。だからこそ、わからないことが男としても人としてもいけないことに思えてならなかった。
 大地と登志子の向かい側の岩風呂の縁には、スイカくらいの大きさの岩が並んでいる。とりわけ大きい岩は、人の出入りがないところだからだ。
 五、六個の岩がある。どれも湯気が当たっているために濡れている。ぬめりを湛えているようだと思って見ているうちに、ふたつの岩が人の顔に見えてきた。ひとつの岩は、自分に確かに似ていた。
『女薫の旅 疾風篇』イラスト「ぼくもやっとわかりました。ほんとに似ていますね」
「久美子ったらね、病院のベッドでこの家族風呂に入って岩を見つけた時のことを何度も話していたの」
「可笑しかったんでしょうね」
「そうみたい。話すたびに、けらけらっと楽しそうな笑い声をあげていたから……」
「ぼくだって、人の顔に似ている岩が並んでいるのを発見したら、誰かに話したくなると思います」
「どうして父と山神(やまがみ)君なのかなって、久美子は何度も言っていたの。そんなのって偶然なのに、妹はそれでは納得しなかったのよ」
「どうしてなんでしょうかね」
「わからない。今となっては、聞こうにも聞けないから。だからわたし、柳井旅庵を訪ねようと決めたの」
「それで、わかりましたか?」
「残念だけど、わたしにはわからない……。ただ、言えることは、ふたつの顔は、すごく楽しそうにしているってことかな」
「微笑んでいますね。顔を合わせている訳ではないのに、ふたりの気持が同じになっている気がします」
「温かみがあるわね……。もしかしたら、それかもしれないな」
「久美子さんはすごくやさしかったから……」
「妹はとても温厚な性格だったんだけどね、父とだけは折り合いが悪かったの。山神君との間柄のように、父とも仲良くなりたかったのかもしれない……」
「実際に柳井旅庵に来てよかったですね」
「少しは弔いになったかな」
「登志子さんの気持の整理にもなったんじゃないですか?」
「ありがとう、山神君」
 登志子はぽそりと呟くように言うと、湯船の中をゆっくりと移動してきた。五十センチ程だったけれど。それでもふたりの肩が触れ合うくらいにまで近づいた。

第四章 男の自覚〈17〉

 大地(だいち)の視界に、登志子(としこ)の豊かな乳房がはっきりと入っている。湯の表面が小刻みに波打っている。湯の底のほうでは、陰毛の茂みがゆらゆらと揺れているのも見える。
「あの子ね、すごく大胆なことも言ったのよ。姉妹だから言えるようなことをね」
「何と言ったんですか?」
「山神(やまがみ)君に言ったら、間違いなく、びっくりすると思うな」
「教えてください。久美子(くみこ)さんのことならどんなことでも知りたいから……」
「柳井旅庵の家族風呂で、君に抱かれたかったんですって」
「そんなことを言っていたんですか……。すごいな、姉妹って」
「わたしも驚いたわ。姉妹といっても、久美子が病気療養のために札幌に戻る前までは、わたしたち、離れ離れだったの。だから、あけすけに話したことなんてなかったの」
「不思議なものですね、病気で戻ってきたことがきっかけとなって、いろいろなことを話せるようになるなんて……」
「今にして思うと、久美子はぬくもりが欲しかったんじゃないかなあ……。あけすけに言っていたのは、甘えたかったからだわ、きっと。父とも和解したかったのかもしれない。きっとそう。父に似た岩を眺めているうちに、そうじゃないかなって思ったわ」
 大地はうなずくと、湯の中に没している手を握った。指を絡めて力を入れた。久美子の気持を理解できたと、登志子に伝えたかった。本当ならば久美子の手を握りたかったけれど、それはもうできない。
 記憶のはるか彼方に置いていった久美子への愛しさが蘇ってきた。彼女に抱いた性的な欲望もはっきりと意識できた。
 指を絡めているのは登志子なのに、久美子の指のような錯覚に陥った。でも驚かなかったし、慌てたりもしなかった。不思議なことに、登志子であっても久美子であっても、どちらでもかまわないと思った。
 触れ合っていることが重要だった。肌を重ねていれば、必ず、自分の心に芽ばえている愛しさは伝えられる。そんな自信のような強い気持になっていたのだ。
「登志子さん、お願いがあります」
「何?」
「キスしてもいいでしょうか」
「どうして?」
「久美子さんを思い出したから……」
「理由になっていないんじゃないかしら……。気持はうれしいけど、わたしは久美子の身代わりはいやよ」
 登志子は首を横に小さく振った。それとともに、湯が揺れた。豊かな乳房も湯の中で大きく波打ちながら揺れた。左右にだけでなく上下にも。
(抱きたいよ、登志子さんを……)
 大地は腹筋に力を込めた。陰茎がつけ根から跳ねていた。陰毛のゆらめきの中で、陰茎が屹立をはじめた。

第四章 男の自覚〈18〉

 家族風呂にかけ流しの湯の音が間断なく響いている。
 大地(だいち)は腹筋に力をもう一度込めた。それでも陰茎は萎えない。欲望も鎮まらない。それどころか勢いを増しているようだった。すぐ隣に美しい女性がいるのだから勃起するのは当然だろう。しかも、抱きたいという欲望も膨らみつづけているのだから。
 湯船の中で太ももを重ねた。勃起していることを坂上登志子(さかがみとしこ)に気づかれないように。そのちょっとの工夫で、陰茎の先端の笠だけがチラッと見えるだけになった。
「山神(やまがみ)君、どうして返事してくれないのかな」
 登志子は視線を絡めないままに囁いた。湯が流れる音に彼女の擦れ声が混じって聞き取りにくい。大地は彼女との距離を縮めた。
「返事って……」
「わたしは久美子(くみこ)の身代わりとしてはキスしたくないと言ったんだけどな」
「ということは……」
「君の今の素直な気持を教えてくれるかしら。それによっては、わたしも気持を変えられるかもしれない」
 湯の表面が揺れている。それとともに、乳房も大きく波打つ。登志子は深々と息を吐き出していた。頬の赤みが濃くなった。湯に長く浸かっていることだけが理由ではない。彼女は今、大胆なことを言ったのだ。
「久美子さんの身代わりだなんて、ぼくは一度も言っていません」
「でも、妹のことを思い出したからキスしたいと思ったんでしょ?」
「そうです。でもそれは登志子さんが身代わりになると思ったからではありません」
「だったら何?」
「正直に言います。ぼく、登志子さんに欲情しているんです。修善寺駅の前で声をかけられた時から、素敵な女性だなという印象を持ちました。あれから数時間しか経っていませんけど、ずいぶんと親しくなったと思います。だから、キスしたいという気持になったとしても不思議ではないんじゃないですか」
 大地は早口にならないように気をつけながら言った。登志子を説得している訳ではないし、無理強いするつもりもなかった。欲望がごく自然に溢れ出てきたことを伝えたかった。それを受け止めてくれないなら、何も求められない。
 登志子の横顔を探る。
 すっと通った高い鼻が美しい。瞳がきらめいてる。長いまつ毛がまばたきのたびに震える。可憐だ。三十半ばの女性なのに、初々しさが躯の奥底から滲み出てきているようだった。心の健やかさが、可憐さや初々しさにつながっているのだ。
(ぼくにはこれ以上のこと言えない……)
 大地はため息を洩らした。湯煙がすっとたなびいた。
 キスしたい。
 願いが強くなるにつれて、欲望も迫り上がってくる。
 一緒にお風呂に入っているのだから、無理にキスしても受け入れてはくれると思ったりもする。でも、そんなことはしない。無理に求めるキスが気持いいはずがないし、愉しくもないからだ。
 キスも愛撫も抱擁もお互いの気持よさが大切なのだ。男女の触れ合いにとって、それは大前提ではないか。それを無視して、どちらか一方だけが気持よくなっても絶対に愉しくならない。男女どちらにとっても不幸になるだけだ。
 沈黙がつづく。
 お湯が落ちる音だけが耳に入ってくる。
 永遠につづくのではないか。
 そんなことを思っていると、ようやく登志子が声をあげた。
「わたしに、キスしたいのね」
「はい、そうです。久美子さんのお姉さんだって知らなかったら、もっと積極的に求めていたと思います」
「求めるって、どういう風に?」
「どうって……」
「実際にここでしてみてくれるかしら。遠慮しないでいいから。何をしても平気だから」
 登志子はねっとりとした声音で言った。いくらかうわずっていた。それまでの淡々とした口調とは違って、声の調子が熱を帯びていた。
 成熟した大人の女の誘い文句であり、受け入れるという宣言でもあった。キスしてもいいし、抱いてもいい。乳房を愛撫してもいいし、乳首を吸ってもいい。登志子は遠回しな言い方で、男の欲望を受け入れたことを表したのだ。
 大地は湯船の中を移動した。抱きしめる前に一度、登志子ときちんと見つめ合いたかったから。
 登志子と向かい合う。彼女の瞳を射ぬくように見つめる。瞳を覆っているうるみが波立つ。頬を染める赤い色味がいっきに濃くなる。恥じらっている表情が滲み出てくる。性的な高ぶりが顔全体に拡がる。
「ああっ、すごい……。男の人とこんなに長い時間、真剣に見つめ合ったのって、わたし、初めてかもしれないな」
「いやですか?」
「ううん、そうじゃない。ドキドキして胸が張り裂けそう……。ねえ、ひとつ訊いてもいかな」
「どうぞ、なんなりと」
「久美子ともこんなに熱く見つめ合ったの? これは身代わりといったことを言いたいからじゃないの。だから、正直に言って……」
「見つめ合ったと思います。久美子さんのやさしさを味わいながら、ゆったりとした幸せな気持になった記憶があります」
「よかった……」
「素敵な姉妹ですね」
「今はわたしを見て、わたしを抱いて」
「はい、登志子さん」
 大地は大きめの声で言った。久美子から登志子へ。気持も意識も欲望も移ったような気がした。久美子は過去の思い出になり、今を生きる登志子と向かい合えると思った。

第四章 男の自覚〈19〉

 登志子(としこ)にしなだれかかるように抱きついた。
 岩風呂の湯が波打った。
 大地(だいち)はもう陰茎を隠さなかった。重ねている太ももを開いて、陰茎を解き放った。透明な温泉のために、陰茎が勃起しているのがはっきりと見て取れる。登志子も間違いなく気づくだろう。大胆なことをしていると思ったけれど、肌を重ねるには十分な時間を彼女と共有しているはずだ。
 顔を寄せる。登志子に近づけば近づくほど、彼女の美しさに惚れ惚れしてしまう。
 長いまつ毛が震える。ゆっくりと瞼を閉じていく。くちびるが開く。三十五歳のくちびる。温泉の湯に濡れているからか、粘り気の満ちた輝きを放っている。
 くちびるを重ねた。口全体が軽く痺れたような感覚に包まれる。すごくうれしいから。久美子(くみこ)の姉とキスしている意識がなくなっている。気持のいいキス。大地はやさしいキスに没頭する。
 舌を絡める。湯を飲んでいる訳でもないのに、唾液は路上でのキスの時よりもさらさらしている。彼女は男の快感を引きだすような舌遣いをする。巧みだ。舌の動きとくちびるの動きが連動したり、別々に動いたりする。勢いよく吸ってきたかと思ったら、唾液を送り込んできたりもする。その間も、彼女は乳房を押しつけてくる。尖った乳首で胸板をくすぐる。背中に回している手で、湯に没している腰のあたりを撫でたりもする。
「お姉さん、すごく気持いいです。ぼく、のぼせちゃいそうです」『女薫の旅 疾風篇』イラスト
「それってキスのせいじゃなくて、お湯に長く浸かり過ぎちゃったからじゃないの? 出ましょうか」
「離れたくありません」
「君に倒れられたら、わたし、困るわ。妹のように看護婦でもないから、手当てができないもの」
「もうちょっとだけ……」
「だめよ。ほら、出ましょうね」
 大地はしぶしぶながら彼女から離れると、湯船の中で立ち上がった。
 陰茎は湯を弾きながら勢いよく跳ねた。湯が滴となって飛び散った。いくつかの滴は彼女の髪と頬にかかった。
 彼女の美しい顔と陰茎の距離は、約五十センチ。
 彼女の視線が陰茎に注がれる。大地の意識も陰茎だけに向う。勃起が強まり、幹の芯に強い脈動が駆け上がっていく。笠の外周がうねり、ふぐりが上下する。
 陰茎は彼女の見ている目の前で肉樹に成長を遂げた。
「高校二年生なのに、大人みたい……」
「同級生と勃起しているおちんちんを比べたことがないから、正直、わかりません」
「自信を持ってもいいんじゃないかしら。でも、女の人はおちんちんの大きさについては重要だと思っていないから、自信に溺れないようにしないと」
「そうなんですよね、女の人ってすごく不思議です。躯の結びつきなんだからおちんちんが大きいほうが気持いいはずなのに、けっしてそんなことがないんだから……」
「山神(やまがみ)君って、性についての知識が豊富みたいね。女性との経験が豊かなの?」
「ぜんぜん……。週刊プレイボーイだとか平凡パンチの記事の知識です」
「へえ、そういう週刊誌を買っているんだ……」
「サッカー部の部室に置いてあるんです。誰かが買って読み終えたものです。ぼくみたいな小遣いが月に三千円の男には買えません」
「高校生って、面白いのね」
 彼女は湯船に浸かったまま、くすくすっと笑い声をあげた。華奢な肩が揺れ、湯の表面が波打った。それだけでは終わらなかった。湯の中から右手が伸びてきた。何をするのかなと思ったら、いきなり、肉樹のつけ根を握ってきた。
 ぬめりを湛えたくちびるが肉樹に近づく。幹を握っている指に力がこもる。彼女はまぶたを閉じる。まつ毛を小刻みに震わせながら。
 肉樹がくわえられた。
 彼女の口の中は熱気に満ちていた。唾液はやはりさらさらしていた。舌の動きはねっとりとしていて、笠に絡みついたり、幹にべたりと張り付いたりした。

第四章 男の自覚〈20〉

 登志子(としこ)が頭を左右に揺すりながら、肉樹を深々とくわえこんだ。
 口の最深部にまで導いていく。情熱的だ。彼女の荒い息遣いが家族風呂に響く。かけ流しの湯の音にかき消されることはない。くちびるを締めて、肉樹のつけ根を圧迫する。頬を凹ませて、幹全体を圧してくる。
 舌の動きは激しいけれど、やさしい。丹念だ。荒々しいけれど、気遣いに満ちている。ほんの少しの反応でも彼女は気づいてくれる。そして、感じたところを丁寧に愛撫してくれるのだ。献身的だった。頭の中が真っ白になるくらいに気持いい舌遣いだ。
 妹の久美子(くみこ)も丁寧な愛撫をしてくれた。深夜に病院のベッドで交わったことが脳裡を掠めた。共通点を見つけようとしているのではない。見下ろした時の登志子の顔が、妹に似ていたからだ。
(姉にくわえてもらいながら妹のことを思い浮かべるなんて……)
 大地(だいち)はふうっと息を吐き出した。今は姉の登志子のことだけを考えないといけないと思う。そうしないと、姉妹のどちらに対しても裏切りになる気がする。
「お姉さん、ぼく、我慢できません。ああっ、どうしたらいいですか」
「どうしたいの?」
「もっともっと触れたいし、もっともっとお姉さんのことを知りたいんです……」
「わたしに興味を抱いてくれたのね。うれしいなあ。躯を重ねられたからそれでオーケーということではなかったのね」
「ぼくは妹の久美子さんとも出会いましたけれど、登志子さんとも出会ったと思っています。通りすがりの人ではないんですから、当然、どういう性格の女性なのか、すごく気になります」
「君って素敵ね。妹がなぜ、高校生の君にぞっこんになったのか、ようやくわかった気がするなあ。修善寺にやって来てよかった」
「ぼくもお姉さんと出会えて幸運だったと思います。もちろん、久美子さんとの出会いも幸せなものでした」
「山神(やまがみ)君は、わたしのことを知りたいのよね」
「はい、お姉さん」
「だったら、わたしに触れてみて……」
 登志子は湯船に浸かっていたけれど、ゆっくりと立ち上がった。岩風呂から出て、桧の洗い場に坐り込んだ。そしてその場で仰向けになった。
(なんてきれいなんだ……)
 温泉に浸かっていた女体はほのかに赤色に染まっていた。三十五歳の女体。湯に濡れた肌は艶やかに輝いている。うっすら光る明かりを浴びた躯は、妖しいぬめりを湛えているようだった。

第四章 男の自覚〈21〉

 仰向けになっても、乳房はわずかしか脇に流れていない。張りと弾力を保っている。尖った乳首の輪郭が美しい。見つめていると、吸い寄せられてしまいそうになる。
 ウエストのくびれも見て取れる。下腹部はふっくらとしているけれど、けっして太ってはいない。むっちりとした下半身といったところだ。年上の女性らしい色香がぎゅっと詰まっているようだ。
 湯に濡れた陰毛の茂みはしんなりとして倒れている。割れ目を隠すように足元の方向にすべてがなびいている。薄い茂みだ。陰毛の地肌が垣間見えるくらいだ。その肌も透明感があった。雪国で育ったからだろうか。久美子(くみこ)もそうだった。肌は抜けるような白色だった。自分みたいな男が触れたら汚してしまいそうな気がしたくらいだ。
 登志子(としこ)に寄り添う。左腕で腕枕をしてあげる。屹立している肉樹を、彼女の太ももに押し付ける。そうしながら、乳房に右手を伸ばす。耳たぶをくちびるで愛撫しながら、
「お姉さんのことを教えてくださいね……」
 と、甘えた口調で囁いた。その間も、乳房を揉んでいた。
 弾力よりもやわらかみのほうがわずかに勝っている乳房だ。指先を押し込むと、指の腹のあたりはすっぽりと埋まる。やわらかみのある乳房はそれだけでなく、しっとりとした肌で指先をすっぽりと包んでくるようだった。だからといって、弾力がないという訳でない。絶妙なバランスなのだ。まさに成熟した女体だった。
「君はもう、妹にいろいろなことを教えてもらっているんでしょう? 教えることがないとしたら、わたし、ちょっと妬けちゃうな」
「久美子さんとは何度も触れ合った訳ではありません。だから、教えてもらうというところまではいきませんでした」
「面倒見のいい妹だったのに?」
「ぼくはがむしゃらでしたから……無我夢中だったせいで、ゆったりとした触れ合いができなかったんです」
「ということは、嫉妬しなくてもいいってことかしら」
「ぼくは今、登志子さんのことだけを見つめているんです。だから、お姉さんもぼくのことだけを考えてください」
 大地(だいち)はいくらか強い口調で囁くと、尖っている乳首を指の腹で圧迫した。幹の中心にある芯が感じられるくらいに強く摘んだ。
「ああっ、ちょっと痛い……。でも、気持いい……」
 登志子は眉間に細い皺をつくりながら喘ぎ声をあげた。上体をのけ反らせた。成熟した大人の女の反応だ。大地は自分の躯のすみずみまで性欲がみなぎっていくのを感じた。

第四章 男の自覚〈22〉

 痛みに耐えながらうっとりした登志子(としこ)の表情に、性欲がそそられる。それは高校生の性欲というより、男の性欲そのものだ。
 彼女の太ももに押し付けている肉樹が勢いづく。下腹部全体が熱を帯びる。男の性欲が増幅する。家族風呂では愛撫だけにとどめたほうがいいかなと思っていたけれど、つながってしまいたいという情動がみなぎっていく。
 桧を敷き詰めた洗い場に、岩風呂から溢れた湯が流れてくる。ほどよい熱さが気持いい。
 お湯は登志子の髪や肩のあたりも濡らしていく。
 彼女が瞼を薄く開く。視線を絡めるためではない。岩風呂の縁に目を遣っているようだ。
(ぼくに似ている岩を見ているんだな……)
 登志子に向かっていた性的な高ぶりの中に、封じ込めたはずの久美子(くみこ)への想いがふっと掠めた。
「もっと教えてください、登志子さんのことを……」
『女薫の旅 疾風篇』イラスト 大地(だいち)は久美子のことを頭から追いやるように言うと、登志子の乳房にくちびるをつけた。
 左側の乳首を吸う。もちろん、右手で彼女の右側の乳房を揉みつづけている。くちびるで乳首の幹を締めつける。きつくしたり緩めたりを繰り返す。夢中になってつづける。
 彼女の喘ぎ声が少しずつ大きくなっていく。揃えていた太ももが開きはじめる。腰を上下させる。しんなりとしていた陰毛の中の数本が立ち上がる。成熟した女性のしなやかな躯がうねる。男を求めて訴えているように感じられる。
「わたしのおっぱい、美味しい?」
「はい、すごく……」
「ほんと? どうして美味しいって思うの?」
「舌もくちびるも躯も喜んでいるんです。もっと欲しいって。そういうことを、美味しいと言うんじゃないでしょうか」
「面白い……。おちんちんが美味しいって感じるのと同じなのね」
「登志子さん、わかっているのに、わざわざ訊いたでしょう。どうしてなんですか?」
「わかった?」
「高校生だって、それくらいは察することができます。だって、すごく意味深な雰囲気で訊いたから……」
「久美子が言っていたの。病院のベッドで寝ている君のものを口にふくんだ時、すごく美味しくって感動したって」
「妹さんのことはとりあえず、ここではもう話さないっていう約束をしたんじゃないですか?」
「ごめんなさいね、ついつい思いだしちゃうの。嫉妬かしら。妹に対する想いだけじゃなさそうかな」
「そんなことを言わないでください。ぼく、姉妹のどちらか一方に肩入れすることなんてできませんから」
「困らせちゃってごめんなさい。今のこの瞬間を大切にしないといけないのよね」
「そのとおりです。だから、ぼくとの触れ合いに集中してください」
「ああっ、そうするわ。久美子に負けないくらい、わたし、女を剥き出しにするわ」
 登志子は迷いを断ち切るように強い調子で言った。そして、足を大きく開いて、陰部への愛撫をうながしてきた。大地は肩を押される。気づかないフリをしていると、二度三度と、肩を強く押された。
「どうして欲しいんですか? お姉さんに言ってもらわないと、ぼく、わかりません」
「あのね、可愛がって欲しいの。君にわたしの大切なところを……」
「どこですか」
「ううっ、意地悪。わかっているのに、わざと訊くのね」
「はい、そうです」
「わたしに言わせたいの?」
 大地は素直にうなずいた。北海道育ちの登志子がどんな言い方をするのか知りたかった。男の好奇心だ。性欲が刺激される。
 彼女の足の間に入る。でも、指での愛撫もしないし、割れ目にくちびるをつけたりもしない。彼女がまだ言葉にしていなかったからだ。
 どういう言い方をするのか。
 大地は割れ目を前にして待った。

第四章 男の自覚〈23〉

 割れ目を間近で見つめる。距離にして十センチもない。陰毛の茂みは鼻息が吹きかかって小刻みに揺れている。女性器なのに、女性の一部だという気がしない。それだけで存在している美しい生き物のようなのだ。
 この生き物だけでも愛おしいと思う。抱きしめたいし、口にふくんでしまいたい。舐めることで溢れ出てくるうるみを呑み込みたい。すすり尽くしたい。自分の軀に取り込んで隅々まで行き渡らせたい。
(ぼく、おかしくなっちゃったのかな……)
 大地(だいち)は高ぶりを鎮めるために深呼吸をひとつした。性的な高ぶりに脳細胞が酔っているようだった。だからこそ、どんなことでもしたいと願った し、登志子(としこ)のうるみにまみれることをこの一瞬のうちに求めていたのだ。
 彼女の言葉を待つ。
 早く言って欲しい。そうでないと、我慢できずにむしゃぶりついてしまいそうだ。
「ねえ、だめ? 言わないと何もしてくれないの?」
 登志子が恥ずかしそうに声を投げてくる。仰向けになった足の間に高校生を坐らせているのにだ。女性というのはわけがわからない。
「これでは我慢比べです。どうして登志子さんは素直に言ってくれないんですか」
「だって、わたしばっかりが求めているみたいだもの」
「そんなことありません」
「嘘。北海道からやってきたのもわたし。修善寺の駅前で山神(やまがみ)君だとわからずに声をかけたのもわたし。柳井旅庵に一緒に入るように誘ったのもわたしなら、家族風呂に浸かろうと切り出したのもわたしなの。そうでしょ? 君は素直に従うだけでよかったの」
「登志子さんひとりの望みだった訳じゃありません。ぼくの願いでもあったし、ぼくの性欲でもあったんです」
「ああっ、そうだったのね」
「はい、そうです。登志子さんの気持に、ぼくの心はずっと寄り添っていました」
「わたしが意地を張っていたら、何も進まないみたい……」
「ぼくにも満足をください」
「欲張り。でも、いいわ。君にあげる。いいこと、聞いてね……。山神大地君、わたしのおまんこを、たくさんたくさん可愛がってください」
「やっと言ってくれましたね」
 彼女の丁寧な言葉遣いに性欲が煽られた。満足感が強まった。今日出会ったばかりだけれど、登志子という女性が自分のものになった気がした。征服欲であり、所有欲といったものが満たされた気がした。
 登志子が囁いている間、目の前の割れ目は彩りのある動きをしていた。高校生にとっては驚きだった。陰毛の茂みはそよいでいた。鼻息が吹きかかっていないのに、そよいでいた。下腹部のうねりに連動して、陰毛がさあっとうねっていたのだ。
 割れ目のもっとも外側の厚い肉襞も微妙に動いていた。しかもそれも単調でなくて、リズミカルに。彩りを感じた。美しい筋肉の躍動のようにすら思えた。
 くちびるを割れ目につける。口も舌も感動した。背中に鳥肌がさっと浮き上がるのを感じた。しかもそれは、腹から胸板のほうにまで拡がっている。
 肉襞を口にふくむ。生々しい匂いのうるみが口いっぱいに満ちる。おいしい。うっとりしてしまう。息をしていることすら忘れて、口にふくんだ肉襞を味わう。隅々までうるみを行き渡らせたいという欲望が叶えられている気がする。
 性欲が縦横無尽に拡がっている気がしてならない。登志子という女性を軀に取り込んでしまいたいなどと考えること自体、欲望に制限を加えていないことを感じる。うれしいことなのに、今はなぜか、不自由に思うから不思議だ。不自由な中でこそ、じっくりと味わえたりするものだし、真理を掴めたりするとも思う。
 たとえば、看護婦の久美子(くみこ)との触れ合いがそうだ。
 病院のベッドは狭くて窮屈だった。ほかの入院患者に気づかれないように息を殺して快感を味わった。あの時の快感は本物だった。今この瞬間の快感を偽物 だと言うつもりはないけれど、あの時の高揚感には叶わない。それは真実だ。
(こんなに恵まれているのに、ぼくはなんて図々しいことを考えているんだろう……)
 贅沢すぎると思う。でも、そう考えたことに嘘はない。堕落の一歩なのか? 常に誠実であれと言われていたのに……。

第四章 男の自覚〈24〉

 彼女の敏感な芽をゆっくりと舐める。すでにそれは尖っていて、探さなくても在り処はわかった。
 厚い肉襞がうねるタイミングに合わせるように、敏感な芽が膨脹する。円錐の形が少しずつ大きくなって体積を増している。うるみの量もそれに合わせて増えている。喘ぎ声も大きくなっていて、かけ流しの湯の音にかき消されなくなった。
「ああっ、すごく気持いいの。山神(やまがみ)君、わかる? 君の舌が陰部だけじゃなくて軀全体に絡みついてくるみたいなの」
「気持よさに没頭してください。わざわざぼくを訪ねて北海道からやってきたんですからね、たっぷりと可愛がってあげます」
「いいの? わたしばっかりが気持いいことを味わって……」
「登志子(としこ)さんを口にふくんでいるんです。これだけでもすごく気持がいいんです。さあ、足をもっと開いてください。ぼくが舐めやすい体勢になって」
「恥ずかしい恰好だけど、わたし、やってしまいます。君と話していて、自分の殻を破れそうな気がしてきました」
 登志子は喘ぐように言うと、両膝を立てた。そして割れ目を押し付けるようにして尻を浮かした。大胆な恰好だ。電車の中でやさしい微笑を浮かべていた女性と同一人物だと思えない。
(素晴らしい女性だ……。自分に素直になろうとしている)
 自分の心に正直になることも、その正直さに従うことも大変なことである。努力が必要だし、勇気もなくてはならない。それを彼女はやってのけているのだ。しかも、それを性欲をたぎらせている男の目の前で。称賛に値する勇気だし、敬意を払うべき素直さだ。
 うるみに顔全体が濡れる。自分の軀の隅々まで取り込みたいと思っていたのに、今は、登志子の一部になってしまった気がした。つまりそれは、軀に対する 意識が彼女とひとつになっているということだった。
「わたし、初めてよ、こんなに気持よくなったことって」
「たぶんそれは、心と軀がひとつになっていると実感しているからです。快楽を求めているんじゃなくて、心と軀を求めたからこその快感だと思います」
「ということは、特別な快楽ということ?」
「はい、そう思います。大切な快楽です。これはぼくだけでなくて、登志子さんにとっても……」
 彼女の背中が反り返った。感動していた。岩風呂から溢れ出てくる湯が、登志子のお尻の下を流れた。
 素晴らしい風情だ。
 大地(だいち)は満足した。そして、心も軀も十分に欲情していた。

第四章 男の自覚〈25〉

 つながる時だ。
 大地(だいち)はうるみに濡れた顔を手の甲で拭った。
 登志子(としこ)の割れ目を見つめる。この女性とひとつになりたい。男の性欲がそれを望んでいるし、女の情欲も同じことを願っている。
 肉樹が跳ねる。滴となって溜まっている透明な粘液が飛び散る。登志子が腰を上下させる。割れ目からは白っぽく濁ったうるみが噴き出す。めくれた肉襞がうねりながら、挿入を誘ってくる。
 割れ目に肉樹の先端を押し付けた。
 肉襞がすぐにへばりついてきた。うるみが熱い。肉襞が強い吸引力で、奥に導こうする。たっぷりとした乳房が波打つ。乳輪が盛り上がり、尖った乳首が膨脹する。『女薫の旅 疾風篇』イラスト
 半開きのくちびるが艶めかしい。桜色に染まっていた肌がいつの間にか朱色に変わっている。それでも透明感は強い。清潔感もある。でも妖しい。女の迫力が、そういうところにみなぎっている。
「ひとつになれるなんて、うれしいです、ぼく」
「わたし、もしかしたら、君とこんな風になりたかったのかもしれない。今ではそのために、北海道からやってきた気がするな」
「そんなことはないでしょう? 妹さんのためでしょ?」
「そうだけど、実際はどうだったのかなあって思っているわ。わたしは妹想いの姉を演じたかったのかもしれない……。妹に先立たれた姉という哀しいヒロインを演じたかったのかもしれない……」
「自分の素敵な心を、そんな言い方をして貶めないでください。登志子さんの気持も素敵だし、妹さんの気持もきれいなものでした。それでいいじゃないですか」
「そうね、わたしはわたしと割り切ったほうがいいのよね……。ああっ、自分がこんなに嫉妬深い女だったなんて」
「妹さんは、きっと、素敵な思い出として修善寺のことを話していたんです。闘病生活を送っている彼女にとっては、ぼくとのことも含めて、膨らませて話すことが唯一の愉しみだったのかもしれません」
「そうね、きっと……。わかっているけど、わたし、妹のことがうらやましいと思ったわ。それは消すことのできない事実なの」
「うらやましいと思ったことを、今は自分でやっていますよ」
「ああっ、つながりたい、早く……」
 登志子は呻くように言うと、腰をゆっくりとあげてきた。

第四章 男の自覚〈26〉

 まとわりついている肉襞が圧迫してきて、奥に導こうとする力が強まる。女というのは欲が深いと思う。でも、とても人間的だ。それだからこそ愛すべき存在なのだ。亡くなった久美子(くみこ)に嫉妬していた登志子(としこ)を、異様と評するのは簡単だ。変わった女と言って片づけることもできる。
 でも素直に心を明かした彼女は勇気があって素敵だと思う。魅力的でもある。妹さえもライバルと考えてしまう姉が、人間的で好きだ。この人にならば、自分のドロドロしている部分を明かすことができると思った。
 心と軀をひとつにできるかどうか。単なるイメージで言っているのではない。互いの心と軀を本気で受け止め合えるかどうかだと思う。登志子とならばそれができる。彼女は自分の心を晒した。それを大地(だいち)は不快に感じることなく受け止められた。ひとつになるために互いを認め合ったのだ。
 腰をゆっくりと突く。
 割れ目に笠が入る。「ううっ」。登志子の呻き声があがる。彼女は両手を伸ばしてしがみついてくる。熱い割れ目だ。肉襞だけでなく、奥のほうもうねっている。
 肉樹の中程まで挿す。ひとつになっていくという実感が胸の奥から迫り上がってくる。彼女の喘ぎ声が強まる。「ああっ」。理性的であろうとしていた声が、淫らではばかりのないものになっていく。
 うるみが熱い。とろりとしたそれが肉樹を包んでくる。しかも、その上から細かい肉襞が刺激してくる。ああ、気持いい。突っ張らせた足の裏には、岩風呂から溢れた温泉の湯が流れる。家族風呂の熱気、温泉の熱、登志子の体温、そして大地自身が放っている熱。それらの熱までがひとつになっているようだった。
 大地はあまりの気持よさに全身が痺れるのを感じた。圧倒的な快感だ。下腹部全体が熱くなった。ふぐりの奥で堰き止めていた白い樹液が噴き出しそうだった。
(あっ、いっちゃう……)
 腹筋に力を込めた。まだいきたくなかったから、高ぶりの成り行きに任せなかった。昇るなら、登志子と同時に昇りたい。その想いは強かったのだ。
 ふたりで同時に昇ることで、性的な悦びは深まる。そして、彼女との心の結びつきも強固なものになるはずだ。たとえ、彼女とは今夜ひと晩限りの触れ合いになったとしてもだ。でも、我慢した。言葉を交わすことで心のつながりを実感していなかったからだ。
 大地にとって言葉は大切だった。高校生だというのに、感性だけに頼ってはいなかった。言葉を信じていた。だから、たとえ登志子に会う機会が少なかったとしても、言葉によってつながりが実感できたら、結びついているという安心感や、離れることはないという信頼感を持ちつづけられると思うのだ。
 妹の久美子の場合も、心がつながっていた。軀だけでなく、言葉によってもひとつになった。だからこそ、離れていても自分の心にずっと生きつづけていたのだ。病床の久美子もその思いが強かったに違いない。そうでなければ、修善寺での高校生との深い関係を、姉に明かしたりはしないはずだ。

第四章 男の自覚〈27〉

「いきそうです、お姉さん」
「山神(やまがみ)君、遠慮しないでいっていいのよ。受け止めるつもりだから、君のことを……」
「一緒にいってください」
「妹もそうだった? 一緒に昇ったの?」
「はい、そうでした。そうして、心をつなげたんです。絶対に離れることのない結びつきを、一緒に昇っていくことで感じ取ることができたんです」
「軀の結びつきがすべてということなの?」
「違います、まったく違います」
「えっ、違うの?」
「大切なことは軀と心のふたつの結びつきです。それを言葉によって感じ取りながら、互いの想いを深め合うんです」
「言葉にしないといけないの」
「ぼくは言葉を信じています。信じられるようになったといったほうが正確かもしれません。違うな、それも。女性と心を通わせるために必要な言葉を遣えるようになった。こう言ったほうがいいかな」
「素敵よ、山神君。言葉を信じているなんて言葉を、北海道を発つ時、まさか聞けるとは想像しなかった……。わたしも信じているの、言葉を。愛の言葉を信じているの」
 大地(だいち)は腕に力を込めて、登志子(としこ)を強く抱きしめた。愛しさが溢れ出てくるようだった。全身でそれを伝えたくて、やわらかい女体に指を埋めた。
 肉樹が勢いづく。割れ目の中で何度も大きく跳ねる。つけ根の奥から脈動が駆け上がる。腹筋に力を入れていないと、堤防が決壊してしまいそうだ。
(素晴らしい女性だ、登志子さんは……)
 心に幸福感が満ちている。ふたりで昇っていけるという安心感が幸福感を導いた。そして、理由はもうひとつあった。登志子が心を真正面から向けてきていたからだ。
 心が温かかった。初対面とは思えなかった。やさしさだとか慈愛といった彼女の気持には、一点の曇りもなかったのだ。だから大地は、穢れのまったくない愛に包まれていると感じていた。
「ぼくたち、今のこの瞬間、深く愛し合っています。大げさに聞こえるかもしれませんけど、愛し合っているのを実感できます」
「ああっ、素敵」
「いきそうです、ぼく。もう我慢したくない。登志子さんと昇っていきたい……」
「いいわよ、山神君。さあ、きて。わたしの中に出して。わたしの中で昇っていって」
 割れ目の外側の厚い肉襞がうねりながら引き締まる。幹を締めつけてくる。絶頂の瞬間はもうすぐだ。「ううっ」という呻き声につづいて、
「ああっ、すごい、いくわ、いくっ。山神君、あなたも一緒なのね。わたしたち、一緒に昇るの。ああっ、わたしたち、一緒なの。ずっとずっと心はつながっていくの」
 と、登志子は全身を硬直させながら甲高い声を放った。大地もその瞬間、堤防が決壊するのを感じた。
 白い樹液が噴き出した。強烈な脈動ととともに快感にまみれた。登志子の心のやさしさが、全身に染み込んでくるようだった。慈しみだとかいたわりといった言葉を、彼女の想いから感じ取ることができた。
 別れてしまうのが惜しい。もう少し一緒にいたい。でも、離れないと……。
 大地は彼女にあずけていた上体をわずかに離した。荒い息遣いが少しおさまってきた。でも、いまだにこんなに素敵な出会いができた悦びに心と軀が喜んでいた。
 彼女から軀を離した。名残惜しさに心が震えていた。